日本赤十字社のページ




赤十字の父 アンリー・デュナン
●「ソルフェリーノの思い出」
 1858年6月、スイスの青年実業家アンリー・デュナンは、アルジェリアに水利権を得て製粉会社を設立するため、フランスのナポレオン3世やアルジェリア総督を追って陳情の旅を続け、イタリアに入りました。
 そして運命の6月25日、イタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーにほど近いカスティリオーネの町にさしかかりました。
 イタリア北部のガルダ湖南方にある丘陵地ソルフェリーノでは、前日の24日にイタリア独立を支援するナポレオン3世指揮下のフランス軍8万人とフランツ・ヨーゼフ皇帝指揮下のオーストリア軍9万人が激突し、オーストリア軍が撃退されるも、双方あわせて3万人を越す死傷者が出る激しい戦いとなりました。
 ソルフェリーノに放置された悲惨な負傷兵たちに出会った、アンリー・デュナンは、町の人や旅人に協力を呼び掛けて傷病者の救護に献身しました。
 彼は、「傷ついた兵士は、もはや兵士ではない、人間である。人間同志としてその尊い生命を救わなくてはならない。」との信念に燃え、人々の協力を呼び掛けたのです。
 旅を終えスイスに帰ったデュナンは、自ら戦争犠牲者の悲惨な状況を語るとともに、1862年に「ソルフェリーノの思い出」という本を自費出版し、この中で国際的な救護団体の設置を訴えました。

●国際赤十字組織の誕生






博愛社と佐野常民
 明治10年(1877年)西郷隆盛を大将とする薩摩軍が、政府に対して起こした「西南戦争」では、新しい武器が使われたため、多くの傷病者が野戦に倒れていました。
 このとき、政府の立法審議機関・元老院の議官だった佐野常民(さのつねたみ:1822〜1902年)は、同僚議官の大給恒(おぎゅうゆずる)と語り合い、当時ヨーロッパに設立されていた「赤十字」と同じような救護団体を作ろうと思い立ちました。
 そして、佐野常民と大給恒の趣旨に賛同した発起人たちによって「博愛社」の規則が決められ、政府に対して救護団体「博愛社」の設立を願い出ましたが、当時の政府には「敵味方の差別く救護を行う」という趣旨が理解されず、「博愛社」の設立は、認められませんでした。
 設立を急いだ佐野常民は、熊本にあった陸軍司令部に、「征討総督」である「有栖川熾仁」(ありすがわたるひと)親王を訪ね、直接趣意書を差し出し「博愛社」の設立を願い出ました。
 有栖川宮は、5月1日に英断をもって活動を許可し、「博愛社」の救護員は直ちに現地入りして、官軍・薩摩軍の傷病兵の救護に当たりました。また、当時コレラが大流行していた熊本の水俣地区にも救護員が派遣されました。
 この「博愛社」の活動は、当時「敵の負傷兵まで助ける」という考え方が理解できなかった人々に「人道・博愛」という精神文明の基礎を植え付けたのでした。

日本赤十字社
 西南戦争後、「博愛社」の存続が問題になりましたが、いざというときの救護活動をするには普段から用意していなくてはいけないとの意見が強く、「博愛社」は、新たに社則を定め、永続的な救護団体とすることになりました。
 明治19年(1886年)、日本政府が、ジュネーブ条約(俗に赤十字条約ともいう)に加盟したことにより、「博愛社」は翌年(1887年)に社名を「日本赤十字社」とし、「赤十字国際委員会」の承認を得て、国際赤十字の一員となりました。また「日本赤十字社」の初代社長には、佐野常民が就任しています。

 昭和27年(1942年)8月に「日本赤十字社法」が制定され、特殊法人(民間団体)として新たに発足して以来、内外にわたる救護活動を今もなお続けています。


    ↑
 ごめんなさい、まだ全部出来てないんです。



  前のページに戻るよ